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ベンチの上で猫が二匹、桜の木を見上げていた。 猫にも桜の美しさがわかるのだろうか?。
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休みの日も疲れ果てて何も出来ないと言うのに…
「物語」というのは「原因と結果」の間の出来事の連続なのではないのかと考えるようになりました
群像劇なアニメとか見ていると、主人公が話から疎遠になってケースが多い
シナリオの段階で「原因と結果」の部分に主人公を絡める意図とそのための準備が足りない
端的言うと監督の物語進行のディレクションが行き届いてないのではないか、と
シナリオと言うシステムのなかで一番大事だと思われるのはシナリオライターに負担をかけないこと
だが実際シナリオを書くにあったって最大の障害となるのは「設定」と言う名の「身を縛る鎖」
「設定」と言う言葉はとても取り扱いがデリケートで、物語進行のディレクションをこれだと勘違いしていると目も当てられない
シナリオライターは物語が進むにつれて疲弊し、「設定」でガチガチなった主人公を事実上放り出し、
自らが作った、あるいは「操作しやすいキャラクター」を中心に物語を進行しようとする
それで主人公が物語から離れていってしまい、視聴者はこの物語の主な視点を見失い継続して試聴させるモチベーションを削いてしまっているのではないか
それが横行し、慣例化しているのが今のアニメ界の現状なのではないか
ここでおもしろいのはそれでも結構見れてしまうということ
このような「映画」という視点でアニメを見ていると気が狂いそうになるが、これは日本のアニメ特有のもので
海外などから見たら「映画のエキゾチカ」状態なのではと当時折思うことがある
2009.04.02 | Comments(0) | Trackback() | 雑記
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